長者町のギャラリー「スタンディングパインキューブ」をお借りして、
「アーツチャレンジ2012」出展だった「タニシK」さんのアーティストトークを
赤井あずみさんの進行で行いました。
急の企画でしたが、出展中のほかの作家さんも含めて参加がありました。
「アーツチャレンジ2012」の出展作家の中では、唯一「映像作品」の方でした。
「タニシK」は当然のごとく、ハンドルネームで 未だに本名はわかりません。
タニシKの「映像作品」は芸術文化センターの2Fフォーラムの西日射す場所に
放送局『TNK news』を開局し、誰もが「発信」できる場所をなしている。
ニュースキャスターとして、長者町・大須で出会った人たちに「インタヴュアー」としてインタヴューをした、
ここでしか見ることのできない「ニュース番組」が制作され「映像作品」として流されている。
作品に参加ということでは、「自分に起きた事件」をホワイトボードに張り付けてゆくわけで、
私も「私に起きた大事件 一生の不覚」を書き、ギャラリーツアーの折に
本人がギャラリーの前で読み上げるものであった。
それはまるで筒井康隆の『俺に関する噂』のようなもので、
「えーあの人が あんなことを」と 本人を知らずとも「事件」が知れわたるわけだ。
タニシKの作品は、これまで「2005横浜トリエンナーレ」に向かう京急電鉄車両の中での
「アテンダント」があり、その「映像作品」をアーティストトークで見る。
本人は「アテンダント」の扮装で「飲料品を載せたカート」を押して、突然、乗客の前へ現れるわけだ。
「アテンダント」なんてありえない通常車両の中を、無料の飲料を配りながら、
乗客と会話をするという「はなれ技」をして見せる。
映像を見ている側はそんな「ゲリラ的」なことして、「捕まらないか」とドキドキさせられた。
「アテンダント」なんてありえない通常車両の中を、無料の飲料を配りながら、
乗客と会話をするという「はなれ技」をして見せる。
映像を見ている側はそんな「ゲリラ的」なことして、「捕まらないか」とドキドキさせられた。
彼女はトークのなかで「関心空間」という言葉を使い、
「関係性を明らかにする」行為をなしている。
国民性による違いをみるため、同じ「アテンダント」を韓国ソウル スペインバルセロナの地下鉄で行った。
「孤独死」で亡くなってゆく人の多い都会において、
彼女のなす「行為」は「他者から承認されて生きていたい」という「欲望」に根ざしている。
傍からみると 「そうでしかアートは成立しない。」という反語になったりしながら突きつけられる。
この「アテンダント」以外に個人の大事なものを 特定の人にお届けする「郵便屋プロジェクト」も成してきた。
「関係性そのものがアート」である。
どんなハプニングも含めて、そこで起きた「出来事」によって、
アートを「現実存在」「時間的存在」である証として、
「あの時あの場所での思い出のなかに封じ込める」ことを
「私という存在」が関与した「存在空間」とした。
ありえべからざるゲリラ的「アテンダント」。
どこからとも届けられる「お届け物」。
そして、街頭での「インタヴュー」のすべては、
日常性を「揺さぶられた」側のなかに「届けられた時間」が「想起され、日常の思い出」が現れた。
ギャラリーツアーは展示スペース会場で「個々に起きた出来事」はお笑いのネタではなく、
「記事」として、放送局『TNK news』を開局した。
私も記事が読まれた時、自分から離れ「存在空間」の「出来事」として、展示スペースに投げ出された。
さて、「タニシK」は「関係性そのものがアート」は彼女のアートの営為という「振り子」の一方の頂点とすると、
もう一方の頂点は「毎日欠かしたことのない」という「ドローイング」の日常性もいつか、「作品」として世に送り出されるときに見てみたい。
もう一方の頂点は「毎日欠かしたことのない」という「ドローイング」の日常性もいつか、「作品」として世に送り出されるときに見てみたい。
いったい 「タニシK」さんの素顔はどんな方なのだろう。
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