2012年4月10日火曜日

【レビュー】豊田市美術館「みえるもの/みえないもの」展 140字レビュー


2月5日に実施した、あっとほっとピクニックテーブル#01
「豊田市美術館で現代写真を楽しもう!」。

常設特別展「みえるもの/みえないもの」を見てきました。
(そのときの様子はこちら

参加したみんなで140字以内のショートレビューを書いてみました。
既にTwitterではご紹介したのですが、こちらにまとめておきます。




■ナン・ゴールディン《モーテルの窓、パレンケ、メキシコ、1982》ほか計6点

退廃のなかに顔をのぞかせる慈しみのまなざしが心地よい作品群だった。
被写体との固有の関係性においてのみ成立する《決定的瞬間》を写生しつつ、
際立つ作家の私性とはなんなのか。
ほかの作家、たとえばアラーキーが亡妻を撮るときのそれと、どう違うのか。
まだまだ勉強が足りないなと思った。
(水餃)

男女、もしくは同姓同士の肉体が擦れて刺激を与え合い、その限度を
こえて暴力としてお互いを確認しあう人間の営みを、そのままに記録
しようとしてある。
愛し合う最中の被写体が、何も加工されないままに、愛欲の成れの果て
としての痛みや暴力や外傷が、本当のことを記録してくれ、と写真に託している。
(田中瑞穂)


■荒木経惟《センチメンタルな旅》《冬の旅》

夫婦生活の何気ない日常を撮った写真ではない。
荒木経惟からラブレターというよりも、妻 陽子との往復書簡のような写真たち。
彼と彼女だから生まれる特別なストーリー。嫉妬にも似た憧れを感じた。
(M.F)

写真の女性がこちらを見ているが、化粧っ気がなく睨みつけるような
表情をしている。裸であることが女性であることを印象として強調して
いるが、そこには他者が入り込めない眼差しが映っている。
その撮影者のみに向けられた眼差しを、鑑賞者はなぜに凝視しているのか。
しなければならないのか
(田中瑞穂)


■中西信洋《Layer Drawing - 28x28/Snow》

中西氏の《Layer Drawings》、連続撮影した写真を前後に隙間を空けて
配置する手法は時間軸を暗喩的に表すスタンダードな手法として度々
CGイメージに使われる。
しかし実際に作品と向き合うと、写真間の空隙が「人体の不思議展」の
スライス人間に似た無気味な不連続性を想起させる事も。
(Hirrani)


■川内倫子《Semear》
牧歌的な色彩と、表面的なかわいらしさがあるからこそ、
そこにはいやらしさや汚らしさを表現させ得る素地が出来上がる。
写真の中に写っているものは、鑑賞者に生命の暖かく柔和な感覚を見せ
付けて、同時にその裏返しである冷たく硬直した険しい『生』そのもの
があからさまになっているので立ち止まる。
(田中瑞穂)


■クリスチャン・ボルタンスキー《聖遺物箱(ブーリムの祭り)》
解説による時代背景は意味深なもので、寂しさを感じました。
しかし、作品を見た率直な感想として、失われた過去を箱に閉じ込め、
ほのかな明かりを灯す事で命を繋いでいる。命のともし火にも感じてしまいました。
"私たちは日々死んでいく"ものでもあり、"再生しているもの"でもあると感じました。
(yoshikazu)

写真とは、2次元空間で表現されるものだとしての事実はボルタンスキー
の巨大な装置でも揺るぎはしない。
写真は平面でしか現れない。それだけに、大切な情報としてどれだけの
ものがそぎ落とされているか計り知れない。
鑑賞者が、『何がそぎ落とされているか』を目を凝らしてみ視るための、
巨大な装置。
(田中瑞穂)


■志賀理江子《カナリア》
関連企画として行われた志賀さんのトークで、何度か
"見なかったことにはできない"というフレーズを使っていたのが印象的。
そして私も彼女の話を聞いたこと、作品を見たことをなかったことにできない。
身体に作用するような感覚がいつまでも残るほど、鮮烈でナマなイメージが
提示されていた。
(なお)

「行ったことのない出会ったことのない『景』」を愛(め)でいれば
よかった写真をずっと見てきた。
でも『カナリア』に向き合った時、「なにがみたいの」と見るものを
押し返してくる。発したことのない「言葉」探しをさせられる。
私の「イメージ」は志賀の発した「物語」とは違うところで増殖してるのかもしれない。「写真」の生まれた『景』こそが「作者」であるのかもしれない。
(古橋和佳)

闇から浮かび上がるかのようにして写し出された、人物や風景、その一部たち。
「この世ならざるもの」が棲む異形の現実が、恐怖と恍惚のあわいで揺れている。
私達が当たり前に生きる「日常」を一枚めくれば、このような生も死も
超えた次元が顔を覗かせる。写真を通して自身をもみつめ通す、命のまなざし
(f.k)


■中川幸夫《地獄の門》、《聖なる書》ほか計6点

花の散りゆく姿 散り花は自然界では散ってそのまま 土に帰ってゆく。
中川幸夫は前衛華道家である。生けた花ならどこまでも「面倒みてやる」
それは、「生きているうちが華」とは対極にある。
「華の時間」が横たわるように「圧殺」されてゆく。まさに人生そのものだ。
(古橋和佳)


■杉本博司《エーゲ海、ピリオン》、《The First Seven Days》

地上のどこか。それも疑いをもってしまう。
これが海というものだとすると、地球型惑星の内灘。
イメージとともに私の位置は「神の座」となる。
荒ぶる神の安らぎの時間なのかもしれない。
「言葉」の生まれる「海」がそこにあることだけは 確かだ。
(古橋和佳)


■松江泰治《Gazetteer No.3 1-10》《ANDES 06335》

空撮のような地形の画像。『写真』というよりも『画像』という表現が適当だ。
そこには情報として読み取れる地形の様子があるだけで、鑑賞者の感情に影響
を及ぼす何者かが映されてはない。
何かを感じたり気持ちに変化を齎したりは、しない。
精神に何らかの感覚をもたらすことを、写真が拒否をしている。
(田中瑞穂)

彼らが感じる視覚的美しさは、他人を介しての美しさなんだろう。
目の見えている自分だって、誰かが美しいと言ったから、そう見えている
だけかもしれないなぁ。
自分が美しいと感じる基準は何か考えさせられた作品でした。
(M.F.)

展示テーマを象徴するような作品に感じた。
生まれつき目が見えない人達が見る「一番美しいもの」とは。
私達が普段「見ている」ものはあくまでも視覚に依る。
けれど美しさは心が感じるものだとしたら、視覚情報だけがその指標にはならない。
彼らが見ている光景は私達には見えない。等価値な世界の在り様
(f.k)

カメラのレンズにふたをしたままに撮影した写真と、暗闇で光源が一切ない
ままに撮影した写真と、盲の人間が視覚として捉えるものはすべて『闇』だ。
写真は闇を闇としか顕せない。
しかし盲の人間が言語によって表現しようとする意志や態度が、
世界に構造や彩りを表出させる。写真は闇を闇とは顕さない。
(田中瑞穂)

この美術館で以前行われたカル展以来の再会となった。
あのときは、カルが求めても手に入らないものばかり扱うことに途中で
へたりこみたくなるようなしんどさを感じたが、
今回はどこまでフィクションかと考える余裕があった。
高度に知的でいて情動的。所蔵品は時間をおいて何度も作品に会えるのがいい。
(なお)


■ローマン・オルパカ《OPALKA 1965/1-∞ Detail》シリーズ3点、
黒いキャンバスであったものが、幾年かの歳月をかけて描きこまれた
白い絵具の数字で埋め尽くされている。
隣には何年かおきに撮影した自身のポートレートがある。
時の流れを目に見える形にする試みにより、時間とは何なのかを
問いかけられる。時計が示すものなのか、老化なのか、風化なのか…
(tooi)


■全体「みえるもの/みえないもの」

言うなれば、もてるもの/もたざるもの。
豊富なコレクションと、確かなキュレーションに支えられたすばらしい
特別展だった。企画展の山本糾「光・水・電気」とのコントラストによって、
見る者はいつの間にか写真作品についての考究に誘われる。
二つ併せて実に厚みのある展覧会だった。
(水餃)

「みえるものとみえないもの」作品自体が表現する「美」と、鑑賞者に
想像させる「美」。他人と共に観たり話したりすることで、それぞれの
興味や意見の違いをリアルタイムに知ることができる珍しい機会。
「わからないからまた見たくなる」という意見にも同意。
また違う美術館でやりたいです。
レビュアー:玉川裕士さん:

同時開催の山本糾展が真正面から自然を写すものだったため、その後
「みえるもの/みえないもの」展を見て写真表現の多様性に改めてハッと
する思いがした。同じようにストレートに撮っているかに見える場合でも、
作家によって被写体との距離感や関係性が全く違ったりする。
写真面白いです。
(なお)


以上です!
これからも、少しずつ見たことを言葉で伝えることにトライしていきたいと思います。












(←当日の熱いディスカッションの様子が垣間見られるショット・・)





(なお)

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